J.D.サリンジャーによる小説『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、16歳の高校生ホールデンが学校を退学になった後、寮を出て家に帰るまでの数日間を描いた物語です。
熱狂的に支持する人もいれば、「中二病的」と評価する人もいたりして、いろんな反響を呼びながらもずーっと売れ続けている名著です。
まだ読んでない方、もしくは読んだ方の中には、
と思っている人もいるかもしれません。
本記事では、その問いに対する私なりの考えをまとめております。
この『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という長編小説がどのようにして生まれたのか、サリンジャーの半生を描きながら紐解いていった映画が2019年に公開されています。
『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』です。
この映画を観た上でもう一度小説を読み直すと、サリンジャーの人生が作品に大きく関わっていることがわかります。
小説と映画の両方を鑑賞した上で、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がなぜここまでの反響を呼んでいるのか?を考えてみます。
目次
「ホールデンはありえない」と一蹴した大人たち
映画を観るとわかりますが、サリンジャーがこの『The Catcher in the Rye』の原稿を書き上げた時、いくつかの出版社はそれを読んでボロクソに酷評しました。
「ホールデンがありえない」
物語の主人公ホールデンは、多くの出版社たちから「共感できない狂った若者」としてつっぱねられてしまうのです。
サリンジャーを応援しながら映画を観ているこちらとしては悲しくなるのですが、実際に小説を読んでみるとたしかに「ありえない」という人たちの気持ちもわかるような気がします。
ホールデンが大人たちに受け入れられないのは、おそらく下記のような点です。
- 情緒不安定
- 自意識過剰
- 周りの人を小バカにしているようなところ
友達とふざけ合っていたかと思えば、急にやけくそな気持ちになって殴りかかったり、深夜に急な淋しさに耐えられずに、誰かれ構わず女の子に電話しようとしたり。
突然目の前の女の子を猛烈に愛している気持ちになったかと思えば、その気持ちはあっというまに冷め、逆に大嫌いになってしまう。
その場の環境に影響されやすく、異常なほどコロコロと感情を激変させるホールデンを一見して「狂っている」と感じる人がいても、そんなにおかしいことではないように感じます。
落第科目ばかりで学校を退学になりながらも、自分には何か特別なところがあると思っていて、大人や周りの人を小バカにしたような喋り方をするホールデン。
出版社の大人たちから「鼻につく」と否定されるのも、わからないでもありません。
ホールデンに激しく共感した若者
『天気の子』の主人公も読んでいた
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が大ヒットしたのは、多くの若者に共感されたからだと言われています。
大人からは「ありえない」と一蹴されたホールデンですが、若者にとっては自分たちの感情を代弁する主人公として強い印象を残したのです。
映画では、ホールデンと自分があまりにも似ていると感じた読者が、「なぜこんなに僕を知ってるんです?」とサリンジャーに問いかけてくるシーンもあります。
新海誠監督の映画『天気の子』に登場する主人公、帆高くんも村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでいます。
帆高くんは高校1年生。ホールデンと同い年です。
家出して東京にやってきた帆高くんにとって、学校を退学になり、大人たちを憎み、社会に失望しかけているホールデンの物語は、どこか身近に感じられたのかもしれません。
「矛盾」が若者の共感を呼ぶ
小説を読んで感じるのは、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、下記2点の要素が絡み合ってできる「矛盾」に苦しむ物語だということです。
- 大人は卑しい。子供の無垢さを失いたくない。
- 自分はもう大人だ。子供扱いされたくない。
ホールデンの行動と感情は、常に矛盾を抱えています。
- 一丁前にお酒を飲んで、女の子にお酒を奢って、口説いて一緒に踊ろうとする。
- 大人からは「未成年に酒は出せない」「もう家に帰りな。君はいくつなんだ?」と、子供扱いされる
- ちょっと背伸びしてホテルの部屋に娼婦を呼んだら、お金をぼったくられてしまい、子供のように泣き出してしまう
年齢的には「未成年」とされていても、自分はもう立派な大人で子供じゃない。でも子供っぽさが残っている自分にも気づいていて、それがたまに気恥ずかしくてたまらなくなるのです。
一方で、ホールデンの「大人批判」は作中の至る所に出てきます。
- 「保護者ウケ」することばかりを考えて見栄えだけ良くして、生徒のことはぞんざいにあつかう学校の経営方針。
- 謙虚に振る舞いながらも、「自分は大物だ」という自尊心が滲み出ている「とんでもない俗物」なピアノ・プレイヤー。
- なんにでも単一化・簡略化を要求し、「わき道にある面白いものに気づく才能」を切り捨てる学校教師
ホールデンは、友達やガールフレンドまでもが、そういった利己的な卑しさや演技臭さを持っていることを敏感に感じ取り、うんざりしてしまいます。
世間に対する失望の気持ちを真剣に話しても、自分をチャーミングに見せるのに忙しいガールフレンドにはまったく理解してもらえず、挙げ句の果てには「スカスカ女」などと言って逆ギレしてしまうのです。
みんな卑しい大人になっていくけれど、自分はそうはなりたくない。
博物館に展示された剥製の生き物のように、ずっと変わらないままでいたい。
ホールデンの矛盾を抱えた物語は、「子供にも大人にもなりきれない中途半端な自分」に対するモヤモヤや不安、やるせなさを抱える若者にとっては、共感できる点が多いのかもしれません。
「ライ麦畑のキャッチャー」として
だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子供がいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。
村上春樹訳 白水社『キャッチャー・イン・ザ・ライ』より
子供たちが崖から落ちそうになったら、その子をさっとキャッチしてやる。そんな「ライ麦畑のキャッチャー」になりたい。既に無垢な子供ではなくなりつつあるホールデンは、子供たちに希望を託すのです。
「妹のフィービーや他の子供たちが無垢さを失わないように、世の中に失望してしまわないように救ってあげたい」というホールデンのやさしい想いは、大人にも刺さるものがあります。
映画を観るとわかりますが、サリンジャー自身、恋人の裏切りや辛い戦争体験によって「汚い大人たちの利己的な世界」の犠牲者として呑み込まれてしまいます。
サリンジャーは徴兵中も、必死でホールデンの物語を頭に描き続けます。
PTSDになるほどの辛い戦火の中でサリンジャーを生かし続けたのは「それでも自分自身を失いたくない」という心の「声」でした。
その「声」はホールデンの物語となって、サリンジャーを守り救ったのです。
その後に続く映画後半のストーリー展開から、サリンジャーが最後に行き着く人生のかたちは、「ホールデンが大人になったらこうなるのかな」と思えるような結末でした。
切なさの残る結末ではありますが、サリンジャーが遺した「ホールデンの物語」は今も多くの若者の心に寄り添って、崖から落ちるところをキャッチしようとしてくれているのだと思います。
ちなみに:繊細なサリンジャーの純粋な精神
小説を読み返してみると、物語の序盤でホールデンがこんなことを語る部分があります。
僕が本当にノックアウトされる本というのは、読み終わったときに、それを書いた作家が僕の大親友で、いつでも好きな時にちょっと電話をかけて話せるような感じだといいのにな、と思わせてくれるような本なんだ。
そして、サマセット・モームの『人間の絆』という小説を読んでこう言うのです。
なかなか悪くない本だった。だけどじゃあサマセット・モームさんに電話をかけたいかというと、そういう気持ちにはなれなかったな。どうしてだろう。たぶんモームは、僕が電話をかけたいという気持ちにはなれないタイプの人なんだってだけのことだろう。
サマセット・モームもなかなか過酷な生い立ちを経験した作家ですが、人間の醜さを笑って受け流す強さを持つ大人となり、ユーモアに富んだ作品を数多く書いた人です。
※それについてはこの記事に書いてます。
モームと違ってサリンジャーは、生来の繊細な性格に加えて、悲惨な戦争経験によって心を壊されてしまったことで、そういった人間の醜さにどうしても耐えられなくなってしまったのだと思います。
モームのように生きれたらいいなと思うけど、サリンジャーの心の美しさも価値があるものだと思います。
どちらが正しいとか悪いとかは言えません。
でも両方の作品を呼んで、どちらも理解できるようになる機会が持てたのは幸運なことだったと思います。
未読の方はぜひ読んでみてください。
『キャチャー・イン・ザ・ライ』は村上春樹訳が読みやすくておすすめです。
まずは小説を読んで、次に映画を観ると、もう一度小説を読み返したくなります。映画との相乗効果で、興味深い読書体験ができるのではと思います。
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この作品の何がそんなに評価されてるの?