柚木麻子(著)『BUTTER』。
これが久々になかなか面白い小説で、すごいものを読んでしまったぞ!と、恐れ慄いてしまった。間違いなくいずれ、ドラマ化か映画化されるんじゃないかと思ってます。
この小説は実際に起きたとある連続不審死事件から着想を得て書かれたフィクションです。その事件とは、下記のようなものです。
とある女が、婚活サイトなどを通して知り合った複数の男と交際し、結婚をちらつかせるなどして多額の金銭を騙し取った事件。交際した男たちは次々と不審死した状態で発見され、殺人や窃盗、詐欺などの罪で女が逮捕・起訴された。
世間の注目を集めたのは、特に若くもなく、体型や顔に関しても「絶世の美女」とは言えない見た目をした30代の女が、多くの男たちを魅了し、手玉にとることができたという点。被害者の男たちは、騙されていると薄々わかっていながら、それでも犯人の女と一緒にいることを望み、本気で結婚を考えていたといいます。
『BUTTER』が実際の事件にどこまで寄せられたものなのかはわかりませんが、物語としてはかなり斬新で興味深い内容になっています。
目次
『BUTTER』概要
主人公は、町田里佳という週刊誌記者の女性。
彼女が連続不審死事件の被告人を取材することで、物語が展開していきます。
被告人の女の名前は梶井真奈子。略してカジマナとか呼ばれています。
婚活サイトを介して交際した男たちから次々と金を奪い、殺害した罪で逮捕され、東京拘置所に勾留されています。
マスコミには一切何も語らないという梶井真奈子ですが、里佳はとある秘策を使い、どうにか面会を許されるところまでこぎつけます。しかし、話してくれる話題は料理のことばかり。
マーガリンを嫌い、バターを異常なほど愛する梶井の勧めに従って、バター醤油ご飯やバターたっぷりのケーキなどを食べては、面会に赴いて感想を梶井に伝えるという日々が続く。
梶井が逮捕前まで執筆していた料理ブログに載っていたレシピと同じ料理を作って食べるようにしたり、梶井が生まれ育った家を訪問して過去を探ったり、梶井が通っていた料理教室に自分も通ってみたりするなど、里佳は梶井真奈子という人間の背景を徹底的に調べ、探求しようと奮闘します。
そうこうしているうちに、里佳はいつの間にか梶井真奈子の独特な人間性に惹かれるようになっていきます。
梶井の言動をあまり異質だと感じないようになり、「この殺人犯、異常者扱いされてるけど、実は違うんじゃないか?本当は殺したわけじゃなくて、何か隠された事情があるんじゃないか?」とまで思うようになっていきます。
で、読んでるこっち(読者側)としては、「やばいやばいやばい。この主人公、犯罪者に心を染められ始めてる。 大丈夫なのか?この小説大丈夫か?」っていう恐怖と不安でいたたまれない気持ちになるんだけど、一方で、里佳が梶井真奈子という人間のもつ不思議な魅力にのめり込んでいく気持ちも何となくわかるような気がして、「実は梶井真奈子ってそんなに悪い人じゃないのかも?」と感じ出したら最後、こっちもだんだんわけがわからなくなっていきます。
そんなこんなで里佳は内面的にも外見的にも急激に変化していくわけですが、それにつれて、周りにいる友達とか同僚とか恋人にも影響が及んで、いろんな人を巻き込んだドラマが展開されるっていう、ものすごーく不穏な雰囲気が漂う濃密なストーリー。
常に結末が気になるストーリー展開で、これ最後どうなるんだろう?っていう疑問をずっと持ちながら読み進めていくことになります。
で、まあ終盤に衝撃的な展開が待ち構えていて、うわあああーここでこんな展開かよー!って悶絶して、最後「はああー終わった…」って感じで終わります。
ただでさえ序盤から緊張感が続く展開なのに、序盤・中盤の内容が大きな伏線となって、終盤でどーんと物語が突き動かされるっていう、あの構成にシビレる。
これは間違いなく傑作。バターたっぷりの、こってりしたディナーのような小説です。
『BUTTER』のおもしろさ
梶井真奈子という女性への尽きない興味
なんと言ってもとにかく梶井真奈子という女性がすごい。クセが強い。
人を何人も殺した極悪人なのに、なぜか同情・共感させてくる要素をいくつも持っていて、この人に対する興味が尽きないのです。というか、そんなふうに考えている時点で既に梶井真奈子の術中にハマっていて、興味を持てば持つほどズブズブと梶井の沼にはまり込んで、気づいたら精神的に(もしくは肉体的に)殺されています。
そして悪魔のようにこちらを弄びながら、いつどんな風に牙を剥くかわからない女を相手に果敢に取材に挑んでいくという、カジマナ vs 里佳 という構図が熱いです。
序盤における梶井真奈子は、例えるならば『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士。
言動とか思想は明らかにヤバい奴なんだけど、言ってることに納得ができるところもあって、何を考えてるのか気になって夜も眠れない。
こちらの気持ちを全て見透かしているかのような不思議な眼差しでこちらを見ていて、恐怖を感じながらも、目を逸らすことができない。そして知らず知らずのうちに洗脳されていくような、そんな感じのゾクゾク感。そんな恐ろしい存在を相手に、里佳は自分の弱みを梶井に握らせ、心臓を差し出して悪魔の取引を持ちかける。このスリル感に鳥肌が立つ。
一方で、梶井が少しずつ心を開いていくにつれて、梶井にとって里佳が1番の理解者になっていくところも面白いです。おそらく、里佳ほど本気で梶井と向き合おうとした人間は他にいなかったのだと思います。
常に孤独で、誰とも価値観を共有できない人生を生きてきた彼女は、こう語ります。
「友達はいらないの」
P153より引用
梶井は艶のある髪をかすかに振りながら、のんびりと微笑んだ。
「私が欲しいのは崇拝者だけ。友達なんていらないの」
これが彼女の本心なのか、それとも強がりなのかは、最後の最後になるまでわかりません。
読み進めていくにつれて、物語の序盤、中盤、終盤で、梶井真奈子に対する印象はガラリと変わっていきます。まるでバターのように、固まったりとろけたりして、こちらを翻弄させてくるのです。
カロリーたっぷりな料理の描写のえげつなさ
テレビ番組で、芸能人とかが食リポするじゃないですか。
そういうのを観るより、この小説の文章を読む方がずっと食欲がわきます。
むしろ食欲わきすぎて胃もたれします。
「料理を作って食べる」という行為がこの小説のテーマの1つになっていて、とにかくいろんな料理が登場するんですが、里佳がそれらを食べるときの描写がそそるそそる。
たとえばこれ。カジマナから、おいしいから食べなさいとすすめられたガーリックバターライスを食べた時の里佳の語りです。
お米の一粒一粒が肉汁とバターにコーティングされ、強く光っている。醤油の香ばしさが食欲をそそる。焦げたにんにくが舌にじんわりと危ないような渋みと苦味を広げた。脂でつるりとした米粒が次々に舌の上を滑って、喉へと届けられる。先ほどの肉も素晴らしい味わいだが、その肉汁を存分に吸い込んだこのご飯はまた格別である。お米を噛みしめるごとに、むくむくと気力が湧いてきた。不思議な倦怠感と心地よさにこのまま眠ってしまいたくなる。ああ、美味しい、と何度もつぶやいていた。
P144-145より引用
もう、食べたくなるよね。唾が湧いてくる。お腹が鳴る。
里佳は主に「食べる」という行為によって梶井真奈子とのリンクを深めていく(ある意味洗脳されていく)わけですが、こういう食の描写を何度も読まされる私たち読者までもが、里佳のように洗脳されていくような気分になります。
私自身、実際にこの小説を読んでから、やたらとバターに興味を持つようになりました。
週に3回くらいバター醤油パスタを食べたくなるし、味噌ラーメンにバターのせちゃうし、塩ラーメンにもバターのせちゃうし、コンビニで買ったガーリックチキンライスにも、当たり前のようにバターをのせてチンして食べた。
カツ丼を食べようとして、気づいたらバターをのせるかどうか迷う自分がいた。なんにでも「バターのせたら合うんじゃないか?」と思うようになった。冷静になって思い返すとちょっとやばいですね。
女性の生き方を深く深く追求していく小説
梶井真奈子の隠された人間性がだいぶ明らかになって、もうそろそろ終盤に向かうのかな?というテンションで読んでいて、ふと気づきます。まだ半分しか読んでいない。
このボリューム、例えるならばペヤング焼きそば超大盛り。カロリーがすごいよ。
それほどに梶井真奈子の人間性は奥深いのです。
明かされていない本性が、後半の物語を大きく動かしていきます。
また、ある意味で、梶井真奈子は台風の目でしかありません。
彼女を中心として、主人公の里佳や、親友の玲子、恋人の誠、仕事仲間の篠井さんなど、さまざまな人の生き方が劇的に変化していきます。梶井真奈子という人間の生き方を受け、良きも悪きも見てきた上で、じゃあ私たちはどう生きるか?というところまでを描くのがこの小説なのです。
現代の日本において、世間が女性に対して求めることは多岐に渡ります。
- 家庭的であること。おいしい料理が作れて家事もしっかりこなせて、夫に尽くす女性であること。
- 端正な容姿であること。整った体型を維持して、きちんとメイクをして、肌のケアも怠らず、自己管理がしっかりできていること。
- 仕事をしっかりこなしつつも、結婚して子供を産み、きちんとした家庭生活を支えられること。女性が社会進出していくのに伴って、仕事と家事の両立ができることも求められている。
女性とはこうあるべき、家族とはこうあるべき、という観念がそれぞれの心の中にあって、多くの人がその考えに縛られて息苦しさを感じています。
一方で、容姿など気にせず食べたいものを好きなだけ食べて、複数の男性と交際してお金を得て、自分にとって心地良いものだけを求めて生きるのが梶井真奈子という人物です。
低カロリー食品ばかり食べて、食べたいものを我慢して、週に何回かヨガとかに通って、長時間かけて化粧をして、アクセサリーをつけて、周りの目を気にしながら笑顔を振りまいて、世間にとって好ましく思われようと努力する女性たちにとって、梶井真奈子はうらやましい存在であり、妬ましい存在でもあります。
私の事件がこうも注目されるのは、自分の人生をまっとうしていない女性が増えているせいよ!みんな自分だけが損をしていると思っているから、私の奔放で何にもとらわれない言動が気にさわって仕方がないのよ!
P111-112 梶井真奈子のセリフ引用
自分が生きたいように生きてもいいじゃないか、というのがこの小説のテーマの1つですが、自由に生きるためには何かを犠牲にする必要があって、それは世間からの評価だったり、共に過ごす仲間だったりします。
梶井真奈子は、自分にとっての心地よい生き方を堪能する代わりに、周囲の人皆を遠ざけ、破滅させていきます。一方で里佳たちは、それぞれが抱える悩みを理解し合い、寄り添い合いながら、理想に縛られすぎない生き方を目指していきます。
自由気ままに生きたい。でも世間や周囲の人の目は気になるから、自分の欲求を抑制する。
この矛盾した気持ちは、ごく一般的な人々が当たり前に抱えているものです。矛盾を受け入れながら、まるで性質の異なる食材を組み合わせて上手に調理するかのように、よりよい形が作れたらいいですよね。
凶悪犯罪者の目線を通して世の中の歪みを知り、自らの生き方を見つめ直すきっかけをくれる、そんな斬新な小説『BUTTER』。おすすめです。