おなかが空いて仕方がないから、パン屋を襲撃する。
ただそれだけの物語の中に、ここまで面白みを持たせることができるとは。「味わうように読む」という言葉がふさわしい、村上春樹の初期作品『パン屋を襲う』。
読むならもちろん空腹の時が良いです。なおかつ夜が良いです。
- ベッドに横になって寝ようとすると、おなかがグーと鳴る。
- 眠りたいけど、おなかが空いて眠れない。
そんな時に読むと、おそらく1番味わい深く楽しめる物語です。
ドイツ人のイラストレーター、カット・メンシックによるシュールでインパクト大なイラストもまた良い感じで、想像力を無限に掻き立てます。
空想に浸りながらじっくり味わえる「大人のための絵本」という感じで、やはり眠れない夜に読むのがベストな本と言えるでしょう。
目次
空腹でたまらないから、パン屋を襲撃する
とにかく我々は腹を減らせていた。いや、腹を減らせていたなんてものじゃない。宇宙の空白をそのまま呑み込んでしまったような気分だった。
『パン屋を襲う』は、2本の短編から成る連作短編集です。
1編目の「パン屋を襲う」は、まるまる2日間水しか飲んでいない飢餓状態の男2人が、包丁を握りしめてパン屋を襲う。ただそれだけのお話です。
しかしながら、パン屋の店主に思いも寄らない交渉を持ちかけられて、物語は予想外の結末で着地します。その結末は呪いとなり、2編目の物語へと続きます。
2編目「再びパン屋を襲う」で語られるのは、1編目の後日談。
あれから10年、主人公は結婚して妻と二人暮らし。夜中に目が覚めてしまった夫婦は、堪え難いほどの空腹感に襲われます。冷蔵庫はほぼ空っぽ状態。ふと、10年前にパン屋を襲撃したときの話が持ち上がり、その話を聞いた妻はこう断言します。
もう一度パン屋を襲うのよ。それも今すぐにね
深夜に車で街へ出て、開いているパン屋を探す2人。車にはなぜか散弾銃が用意されています。まるで夢の中の世界のように都合よく、奇妙な成り行きで決行される2度目のパン屋襲撃作戦。
シンプルで奇妙な物語展開と、村上春樹お得意の比喩表現、さらに独特なタッチのイラストレーションが相乗効果を生んで、ただパン屋を襲うだけの物語がまるで一遍のクラシック音楽のように心地よく脳に響く作品になっています。
映像が浮かぶ文章が癒しを生む
何よりも特徴的なのは、映像が頭の中にフワッと浮かんでくる独特な文章です。さすがは村上春樹。比喩表現が巧みです。
例えば、「たまらなく空腹である状態」を主人公は脳内でこのように映像化しています。
①僕は小さなボートに乗って静かな洋上に浮かんでいる。
②下を見下ろすと、水の中に海底火山の頂上が見える。
③海面とその頂上のあいだにはそれほどの距離はないように見えるが、しかし正確なところはわからない。
④何故なら水が透明すぎて距離感がつかめないからだ。
このイメージは、物語を通して主人公の頭の中に何度も浮かんできます。その時の心情に応じてイメージに変化が生じ、水面に波がたったり水の透明度が増したりします。
空腹感を独特な映像として描写し、どこか芸術的なイメージとして昇華してくれる文章。これを重度の空腹状態で読んでいると、不思議と心地よく感じられるのです。これは満腹状態では味わえない奇妙な感覚です。
主人公の脳内イメージは変化し続け、時には眠気を誘ってきます。
眠気は海底地震によって生じた無音の波のように僕のボートを鈍く揺さぶっていた。
比喩表現は数ページごとに頻発し、独特な描き方で世界観を作り出します。
途中で二度警察のパトロール車と出会った。一台はわにのように道路のわきにじっと身をひそめており、もう一台はうたぐり深そうに、背後から我々の車を追い越していった。
シンとした深夜の街中に佇むパトカーが、暗い水中で身を潜めるワニに喩えられています。
特にアクション要素もなく、ドキドキハラハラするような展開もなく、まさに暗い水中のような深夜の街でひっそりと決行されるパン屋襲撃。
右脳を刺激され、頭の中に浮かぶイメージに浸っているうちに、あっという間に物語が終わります。読む前と変わらずおなかはグーグー鳴っているけれど、謎の心地よさで心も落ち着いて「もう寝ようや」という気分になっています。
個人的解釈:精神的欲求を満たす物語
「読んだけど意味わからんかった」ってなる人が多いらしいこの短編小説。前述の通り、文章をじっくり味わうだけでも十分楽しめるのでわからなくても別に良いと思うのですが、ついでに私なりの解釈も書いておきます。
主人公たちは空腹を満たすためにパン屋を襲うのですが、その行動によって「食欲を満たす」だけでなく、ある種の「精神的な欲求」を満たそうとしています。
「精神的な欲求」とは「人間的な悩みから解放されたい」といった類の欲求です。
人間は社会性を重んじる生き物なので、お金を払ってパンを買い、食べることで腹を満たします。一方で野生の動物はお腹が空いたらその辺の果物を採って食べたり、他の動物を狩って食べたりします。たぶんサルがパン屋に入ったら、手当たり次第に無断でパンを食べるでしょう。
パン屋を襲ってパンを強奪するのは、「お金を払ってモノを買う」という社会システムから逸脱した、原始的で動物的な行為です。
一度目の襲撃では、思いがけない展開で「等価交換」という形になり、強奪することなくパンを食べて平和に終わります。しかしそれは「人間的で社会的な方法による欲求の満たし方」であり、ある意味でお金を払ったのと同じことでした。
自分は何も失わず、得ることだけを純粋に渇望する行動。すなわち「奪う」という悪事によって初めて、人間的な社会システムから逸脱することができるのです。彼らがやりたかったのは犯罪という、法を逸脱した行為です。そのために二度目の「パン屋襲撃」を仕掛けます。
よくよく読んでみると、主人公夫妻は共働きで、冷蔵庫の中身に気がまわらないほど忙しい生活を送っていると言う背景があります。
もうそろそろ寝ないか?二人とも朝は早いんだし
そんな夫婦が、「食べ物を得るためにお金を稼がなければならない、お金を稼ぐためにいろいろなことを我慢して働かなければならない」という人間特有のストレスや不満から解放されて、動物的な行動に出ることで欲求を満たそうとする物語なのです。
パン屋襲撃によって欲求を満たす登場人物たちはまるで野生動物のようで、お腹いっぱいになるまで食べた主人公の妻は、狩りを終えて満腹になった猫のように、安らかな様子でスヤスヤと眠ります。
読み終えた時に不思議な快感や癒しを感じる理由はここにあると私は思っています。現実で強奪をやるわけにはいかないので、物語として擬似的に体験して気持ちを満たすのです。
「あー人間社会めんどくせー」っていう日常的な不満に、「空腹だ!食べ物でおなかを満たしたい!」という衝動的な欲求が絡みついて、相乗的に膨らんで爆発し、パン屋襲撃実行によってようやく心が満たされるっていう物語なのだと思います。
とはいっても、「人間って、抑圧された不満が爆発したら何やりだすかわからなくて怖くね?」っていう、映画『タクシードライバー』みたいな不穏なムードは生まれません。
「奪うのはパンだけだから、飲み物代はきっちり支払う」などといった、伊坂幸太郎作品に見られるようなユーモアと笑いが感じられる物語になっています。
現実の私たちはあくまでも、「空腹でたまらない人が夢の中で描いた夢物語」として消化すれば良いのだと思います。実際この物語は夢オチでしたという描写があったとしてもなんの不満もありません。
そんな感じで、空腹で眠れない人が寝床でゆっくりと味わう作品、満腹状態ではこの文章を最大限に味わうことはできないかもしれないので、ぜひとも空腹で死にそうな時に読んでみてください。