「叡智の図書館と十の謎」
RPGゲームとかで、魔術師とか学者キャラを選ぶタイプの人って、こういうタイトルに惹かれる人じゃないですか?
「森羅万象、この世のあらゆる理を解し、叡智の深淵にたどり着くことこそが、私の使命なんだ。」とか言って旅に出るキャラクター。かっこいい。
かっこいいんだけど、セリフの意味が一個もわからない。
叡智の深淵にたどり着くってどういうことだ。文章として成立してるのか?小学生の頃から約20年、いろんなゲームをやってきた私ですが、全くわからないまま今日まで生きてきましたよ。
しかし、ついに今日、1つの答えを出すことができました。
きっかけがこの小説、多崎礼(著)『叡智の図書館と十の謎』です。
この小説の要点を箇条書きにして挙げるなら、これです。
- 叡智とはなんぞや?
- 人間は捨てたもんじゃないよ
- ねこ。かわいいよ猫。
- ヒュパティアという人物について知りたい!
- 人間は理想郷をつくれるか?
まあ意味わかんないと思うんですが、突き詰めて言うなら「知識こそが至高」ってどういう意味なの?ということを理解することがこの小説の私なりの到達点でした。
そのためには、この小説だけじゃなくてヒュパティアという古代アレクサンドリアに存在した天文学者の生涯を知ることが不可欠で、関連する映画を1本観たりして理解を深めたら、なんとなくわかってきた。叡智の図書館の重要性。
私も魔術師キャラとして覚醒できるかもしれない。
本当は盗賊キャラの方が好きだけど。
ということで(?)、そんな話をまとめてお伝えしたいと思います。
目次
小説のあらすじ紹介
「叡智の図書館」と呼ばれる、古今東西のすべての知識が保管されていると言われる図書館にたどり着いた主人公。
守人として立ちはだかる女性の像が、10の謎を問いかけてきます。
その謎のすべてに正しく答えることができたとき、図書館の扉が開かれるという物語。
1つ謎が出されるたびに1つの読み切りストーリーが語られるという、短編小説集のような構成になっていて、10の短編が繋がって1つの長編小説になるという構造の小説です。
いろんな世界観を楽しめるアソート小説パック
著者である多崎礼さんについては、私はまったく知らない状態で読み始めたのですが、いろいろな世界観を幅広く描くことのできる小説家さんなんだなーと感動しました。
- ヨーロッパの潮風薫る港町を舞台にしたストーリー
- アメリカの寂れた映画館のある町をイメージしたおしゃれな物語
- あやかしが蔓延る日本古来の世界で、妖狐と吉備一族が戦う物語
など、さまざまな世界観を楽しむことができます。
描写が上手なのでのめり込むように読んでいるうちに、その世界の空気感や、色や、街並みや、温度が鮮明な映像として脳内で再生されていく心地よさを感じます。
また、タイトルからは中世のファンタジー風の世界を想像する人が多いと思うのですが、近未来SFとしての要素が盛り込まれているのも面白いです。そしてむしろこの小説の本筋はSFの方にあると言ってもいいと思います。
あらゆる知識、あらゆる技術を発展させてきた人間たちが、将来的にどんな世界を作り出すのか、ユートピアとなるのか、ディストピアとなるのかっていうところに、物語は集約されていきます。
見どころは、猫のエピソードです。やっぱり。
猫がかわいいんですよ。
いくつもの謎を解いて、いくつもの物語を体験して、ちょっと疲れてきたなーというところで終盤に出てくるごほうび。ありがとうございます。
テーマは「猫×機械」。鋼鉄の体を持った機械に、猫を愛せるのか?という話。
アメリカのSF作家であるフィリップ・K・ディックは、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という小説で、人間を人間たらしめるものは「感情移入する能力があるかどうか」だと書いています。確かに。
しかし私に言わせれば、人間を人間たらしめるものは何かって言ったら、それはもう「猫を愛でる心があるか否か」です。
猫好きならば、無条件で読みましょう。癒されます。
叡智の図書館と守人が存在する世界について
※ここからはややネタバレがありますので未読の方は注意です。
読んでいるうちに、そもそも主人公が旅をしている世界はどうやら現実の世界ではないのではないか?ということがわかってきます。
謎を解くにつれて気候や環境が次々と変化していく世界、死んでも再構築される人間、ウイルスと呼ばれる蟲が飛んでくる描写などから、なにかのネットワーク上の仮想空間であると予想できます。
私の頭の中では、Googleなどの検索エンジンのクローラーがあらゆるWEBページから情報をかき集めて、インデックスしていくようなイメージが浮かびました。
そんな世界に存在する「叡智の図書館」は、世の中の全ての物語や思想や知識が記録されている場所です。「知的深度」が臨界に達し、「『知識こそが至高』の真理を解する高度知的思考体」となった者だけが、その図書館に入る資格を得るのだと言います。
さて、「知識こそが至高」とはなんぞや?
この小説を読んだだけでは、私にはよくわかりませんでした。
だからとりあえず、守人を創造した人工知能のモデルとなった「ヒュパティア」という人物について、調べることにしました。
ヒュパティアという人物について
ヒュパティアの生き様を描いた映画『アレクサンドリア』
ヒュパティアは、400年頃のアレクサンドリアに実在した哲学者であり、数学者であり天文学者でもあった女性です。
天動説が主流だった時代に、「実は動いてるのは太陽じゃなくて地球なんじゃない?」と考え、「地球の回転する軌道は円じゃなくて楕円なのかも?」という真実にたどり着いた、めちゃくちゃ頭の良い人です。
しかし、当時勢力を広めつつあったキリスト教の思想によって、ヒュパティアはキリスト教徒から邪魔者扱いされるようになります。
地動説なんて唱えても「頭がおかしい」とバカにされる時代です。科学的なことを説いても、「神の教えに反する異教徒だ」と迫害される時代です。
しまいには、「女性が偉そうに人にものを教えるなんて。あいつは魔女だ。」と言われ、凄惨な暴行を受けて殺されてしまいます。
ここまで書いたヒュパティアの生涯は、映画『アレクサンドリア』を観て得た知識です。
レイチェル・ワイズ主演で、美しく、賢く、強い女性として描かれるヒュパティアの生き様と、宗教に惑わされて傷つけ合う愚かな人間たちの物語。
1つの思想に固執して「正義」を振りかざし、異なる考えを持つ人を徹底的に痛めつけてやろうとする人間の愚かさは、SNSで誹謗中傷を繰り返す現代人にも通じるところがあります。
ヒュパティアに興味があるかないかは関係なしに、ぜひ多くの人に観てもらいたい映画だなと思います。
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この世の真理を探究する2人のヒュパティア
さて私は、『叡智の図書館と十の謎』を読んだ後にこの『アレクサンドリア』という映画を観たわけですが、映画の序盤を少し観た時点で、「知識こそが至高」という真理についてスーッと理解できたような気がしました。
ヒュパティアの人となりを表すのに最もふさわしいセリフは、これです。
私たちは”違い”より”共通点”が多い。世の中で何が起きようとみんな兄弟よ
映画『アレクサンドリア』より
アレクサンドリア図書館で教鞭を振るう彼女が、授業の中で言ったセリフです。
実在のヒュパティアが生きていたのは、キリスト教徒、ユダヤ教徒、エジプト古来の多神教など、複数の思想や主義が混在する時代です。人々は互いの思想を認めず、石を投げつけ、剣を振りかざし、異教徒を排除することしか頭にありません。
互いに傷つけ合う社会を嘆きながらも、それらに惑わされることなく、宇宙の真理を解き明かすことに情熱を捧げるヒュパティアの姿勢。それは、「叡智の図書館〜」であらゆる知識を貪るように吸収していく人工知能「ヒュパティア」とまさに同じです。
「知識こそが至高」の意味とは?
結論から言うと、「知識こそが至高」とは、「偏った思想にとらわれず、世の中のあらゆることを、分け隔てなく純粋に理解しようとすることこそ至高なのだ」という精神のことなのではないかと私は思っています。
キリスト教、ユダヤ教、異なる思想がぶつかりあう時代で、拒絶するのではなく「私たちは違う点よりも共通点の方が多い。私たちは兄弟だ。」と言うことのできるヒュパティアは唯一、多様性を受け入れることのできる人間でした。
また、天動説が主流だった時代に地動説の可能性を考えることは、自分にとっての「中心」を覆すことでもあり、受け入れがたいことです。自分が信じていたことが覆される恐怖にも屈せず、真実を追い求めることができるのがヒュパティアという人物です。
特定の神ではなく哲学を信仰し、すべての思想を拒絶せず、この世の理をひたすらに探求しつづけたヒュパティアこそ、「知識こそが至高」の真理を解する人物になり得る人だったのではないでしょうか。
偏った思想しか受け入れられない人が、叡智の図書館に入る資格を持てないのも理解できます。そんな人が膨大な知識を得てしまったら、どんな悪いことをするかわからないからです。
例えるなら、核兵器について「知ろうとするだけの人」は叡智の図書館に入る資格を持てます。
核兵器を「使おうとする人」は、図書館に入る資格はありません。
多様性を受け入れ、弱肉強食の理念によって他者や異種を排除することをやめ、純粋に世界を理解しようとする精神に到達した人だけが、叡智の図書館に入ることができます。
そして、全ての人がその資格を持った時、「戦争も犯罪もない平和な世界、差別も貧困もない平等な世界、愛と希望に満ちた理想郷」が完成するのだと思います。
人間は理想郷に到達できるのか?
さて、人間は理想郷を作ることができるのか。
主人公(の代替存在)ログは、無理だと言っていますね。
人類は多様性を受け入れない。弱肉強食の概念を捨てられない。彼らが精神的な成長を果たし、『知識こそ至高』の領域に到達する可能性は、限りなくゼロに近い
「第十問」より
私も無理だと思いました。
小川哲(著)『ユートロニカのこちら側』を読んだ時の記事にも書いていますが、犯罪がなくなるのは、人間がこの世からいなくなったときだけです。理想郷なんて無理ですわ。ムリムリ。
それでも、人間の非合理性を「愛おしい」と評して、人間の友として手を貸し、支えたいと宣言した人工知能アレクサンドリア。
尊い。
思えば、この小説は10の異なる物語をなぞっていくストーリーでもありました。
そこでは、様々な時代に生きる人間たちが、裏切り、罪を犯しながらも、愛情を捨てずに希望を持って正しく生きようとする姿が描かれました。「残虐な部分もあるけど、人間は捨てたもんじゃないぜ」っていうことを感じさせる物語が綴られた上での、この結末。悪くないですね。
私は理想郷は無理だと思うけど、それを目指す精神すら失ってしまったら、世界は悪くなる一方ですね。
よくよく考えてみれば、『アレクサンドリア』という、「キリスト教徒が悪者として描かれる映画」が許容されている現代です。なんでもかんでも迫害されていた昔に比べて、少しは進歩しているのかもしれません。
私も人間らしく悩みながら、精神的に成長していきたいと思います。
なんというか、この小説を読んだら、もっといろんな知識を吸収したいなあという意欲が湧いてきました。もっとたくさん本を読みたいと思える、読書欲を刺激される小説でした。